アリアと徒労とタルトと笹の葉

 「G線上のアリア」はヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲の管弦楽曲のひとつだ。非常に有名な曲であるから、誰しもきっと一度くらいは耳にしたことがあるだろう。この楽曲の旋律は美しい。そしてわたしには、その美しさはとても悲愴的なものに感じられる。哀切をまとったその調べは、ゆるやかな死とか終焉、じわりじわりと染み込むように終わっていくさま、かような観念をわたしに呼び起こさせる。「G線上のアリア」を背景に世界はまっ白な灰へと化してゆき、さいごにはすべてが塵となって風の彼方へと消え去ってしまえばいい。

 「終わり」の音を聴きこのようなことを考えながら、わたしは自身の通う大学の保険センターの待合室に座っていた。この場所を訪れたのは、自身の睡眠および生活習慣について相談するためだ。昼夜のサイクルが反転したままに確立されてしまったわたしの生活習慣は、健全な大学生活にとってはおよそ破滅的であり、実際わたしはこのために現在履修している講義のほとんどに二か月ばかり出席できていない。このままでは試験をも寝過ごし、わたしの足下には手から零れ落ちた単位の水たまりができてしまうだろう。わたしはとにかく現在の生活習慣をなんとかして矯正したかった。しかしながら、二か月間にわたる改善のための努力は無駄に折れた骨の残骸を残すばかりであった。独力では決して現状を打開しえないと悟ったわたしは、そこで大学にある保健センターにすがるような心もちで這っていった。が、結果をいえば、今回の保健センターでの相談は、わたしの生活改善に何ら寄与するところのないものであった。要約すると、生活が滅茶苦茶なので改善したいどうすればよいのかと問うわたしに対し担当看護師が言ったことは、生活を改善しましょうという呆れ返るほどにおおきく的を外したものだった。何も得るものがなかったわたしはおおいに失望し、もう二度と大学の保健センターにはいかないと誓った。助けてくれ。

 その後は久々に大学の学食で昼食をとった。ひとのおおさにかなり辟易としたが、期間限定商品であるらしい紅芋タルトがあまりにおいしくて、ひとのおおさなんてまったく気にならなくなった。今日のよかったことはいまのところこれだけだ。

 もう帰ろうと大学構内を通り抜ける途中、七夕の笹飾りが設置されているのを見つけた。わたしもなにか願い事を書いてやろうかと少し迷ったが、結局書かずに通り過ぎた。ちなみに頭にはつぎのような願いが浮かんでいた。「取りうる選択肢として自殺を思い浮かべることすらないような人間になりたい」

 はあ。紅タ芋ルト。